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このブログに書いてあることは全てウソです

なんかいろいろダメになっていた。一度生活リズムが崩れるとダメだな
希死念慮を抑えたい時は「国有地」で検索するのが有効なようだ。そこまで行ってそこで確実に死ねる方法考えようとするとめんどくさくなって死ぬ気が和らぐ。

ヒュミラ打ったり歯医者行ったり誕生日だったりいろいろあったがもういいや。とりあえず献立作りからやり直そう。いい年になって誕生日がうれしくなるとは思わなかったが、こういう体になると食事で羽目を外せる免罪符として大変有用なのだと気付いた。次はクリスマスが待ち遠しい。
何よりスマホの電池が寿命で膨らんだので機種変せざるを得なくなった。ダメなことは重なるものだ。
    

昨日も通院だった。
午前に消化器内科、午後に皮膚科と一日病院にいる日程で、昼食も先日の口腔外科以来の外食となった。
午前はひどく待ったものの、午後はかつてないくらいスムースで終わりは早かった。皮膚もきれいだし胃腸も外見上は目立った症状がないからそうなるだろう。
もっとも入れている薬の量を考えれば、症状は治まって当然というのは双方共通の見解だった。これからのステロイド減薬でどうなるかが問題だろう。15mgを切ってからだという話はあった。個人的には関節症性乾癬を発症した頃の経験から10mg切ってからが勝負だろうなと思う。

昼食は病院内のレストランで食べた。隣のテーブルの子供がカレーを食べていて、匂いで「ああ、カレーだ!」と思わず声が出た。カレーって思った以上に人間を惑わすのだ。最近は昼一人で面倒くさい時はサバ缶ともやしのスパイス炒めを作る(100円ローソンのサバ缶は脂質が少なくてありがたい)。唐辛子は入れていないが、ターメリックとクミンを入れれば案外カレーを食べているような気分になれる。こういうのを作っていると、体がカレー味を欲しているのだと痛感する。カレーうどんあたりは汁飲まなきゃいけるんじゃないかと思っているが、いざ食べたら汁飲んでしまいそうだ。

早めに終わったので帰りに買い物にも行ったらかなり疲れていたらしい。今朝は久しぶりに起きられず、朝の薬を飲んだ後も昼までずっと寝ていた。気づかないうちに溜まった疲労と精神安定剤が合わさると起きられなくなるのかもしれない。もっとも疲れるようなことはしていないのが困りものなのだが。
    

『ツナミの小形而上学』

ジャン・ピエール・デュピュイ著『ツナミの小形而上学』(岩波書店)も、入院中に読んだ本の一つであった。これは入院期間の後半、私の方で読みたいと追加でリクエストして持ってきてもらった本だ。4月が近づき、既に新型コロナの問題がのっぴきならない状況になっていた頃であった。
本書のテーマは「破局」だ。破局とは人類の破滅を意味する。筆者は破滅の例としてリスボン大地震・スマトラ大地震・原爆・アウシュビッツ・京都議定書・9.11・3.11を取り上げながら、「破局」をもたらす自然災害という「悪」や産業社会における「悪」がどう西欧思想史で捉えられてきたかを辿っていく。そして「"想定外"の大惨事への預言」になぜ私たちは耳を傾けられないか、傾けるにはどうすればよいのかを考える。
この意味で、新型コロナもまた破局をもたらす「悪」だろう。読むにはタイムリーだなと思った。

以下、私なりに本書の内容についてまとめ、考えたことを書いてみる。

本書では3つの「悪」の考え方について取り上げている。
一つは「自然的悪」だ。これは人々を襲う災悪や悲劇といった圧倒的な悪を神の意志・神の裁きと見なす神義論的考え方である。災害で害を蒙ったものは、その人が犯した罪の酬いを受けたと考える。これに対する概念として、著者は「精神的な悪」を取り上げる。悪はすべて人間に責任があるとする考え方だ。自然はあくまで原因であり、悪は人の理性によって対処・克服できると考える。この「精神的な悪」こそ神から人を解放する啓蒙思想であり、近代の確立である。筆者はこの考え方の先鞭をルソーに見る。
新型コロナのニュースを見ればこうした「精神的な悪」の主張はいくらでも転がっているだろう。WHOの初期対応に問題があった、ウイルスが広まったのは研究所の人為的ミスが原因だ、各国政府が適切な処理をすれば被害は拡大しなかった、医療技術の発展・ワクチンの開発によってコロナとの戦争に勝利できる、今こそ人類の連帯と協調によってウイルスを克服しよう……前向きであれ後ろ向きであれ、このような主張はいくらでも見いだせる。
そして筆者はこの「精神的な悪」にこそ現代の課題を見る。私たちは私たちが生み出した「悪」について、もはや責任を負えなくなってしまっている。テロ然り、核兵器然り、地球温暖化然り、福島第一原発然りだ。それはウイルスも同様で、もし馬鹿正直に新型コロナの「精神的な悪」の責任を"誰か"に問おうとすると、それこそ一京円の賠償請求なる喜劇を起こすしかない。入院中、最初に新型コロナに感染した人間を全人類が訴える裁判を描いたSFとかがあったらどうなるだろうとか妄想していたが、現実は自分の稚拙な妄想より遥かに狂っていたというわけだ。
筆者はこの「無限責任」の問題に関連して、アイヒマンとイーザリーの事例を取り上げる。アイヒマンは上司の期待に応えて自分の職務をただこなそうとし、結果数十万人のユダヤ人をガス室に送り込む許可書に判を押し続けたナチスの高級官僚だ。大量のユダヤ人を虐殺した彼は悪の怪物ではなく、ただの小役人だった。彼が為した行為に対し、彼が負わねばならない責任はゼロと無限ほどの開きがあると本著は指摘する。アイヒマン裁判を記録したアーレントは、アイヒマンの特異性を「thoughtlessness」と呼んだ。これは本書では「目先のこと以外見えていなかったこと――短見」と訳されている。

――現実からこれほど遠ざかった地点、思考を欠いた(thoughtlessness)これほどの地点にまで到達しうるということ、人間におそらくは内在している悪しき本能をすべて寄り合わせた以上の悪を為すことができるということ、まさにそれが、イェルサレムで学ぶことのできる教訓だった。だがそれは一つの教訓に過ぎなかった。起きてしまった事象そのものの説明ではなかったし、そうした問題の理論でもなかった。(ハンナ・アーレント『イェルサレムのアイヒマン』)

アイヒマンは裁判にて「自分は機械の歯車に過ぎず、一介の官僚である自分は命令に従うほかなかった。もし自分がやらずとも別の誰かが職務として判を押していただろう」と自分を弁護した。結局彼はアウシュビッツの「精神的な悪」を為したとして死刑となる。だが、引用したようにアイヒマンの内にこの悪の説明を求められるだろうか、ここまでの規模に至った悪に対し精神的悪は存在しうるだろうか――筆者はそう問う。
イーザリーは広島に原爆を投下した爆撃機の操縦士の一人である。帰国後自分が英雄として扱われることと、為した行為への罪悪感の差に耐えきれなくなったイーザリーは、窃盗などの犯罪を繰り返し「罰を受ける権利」を要求しようとする。これもまたアイヒマンとは別のあり方で無限責任を負った者が取る生き方なのだろう。
筆者は「短見」によって近視眼的になった現代では、現実に目の前にある災禍を自分のものとして考えず、自分の外ないしは自己を超越した全体として見てしまうと考え、これを「システム的な悪」と呼んだ。かつて悪をすべて人間の内に背負うことで近代化した我々は、もはやその悪を抱えきれなくなり、また悪を自然に返すほかなくなってしまった。ゆえに筆者はいつか訪れる「破局の未来」に対抗するために、未来を複数ある選択肢から我々が選んで決めるものと捉えるのではなく、既に存在する運命として「破局の未来」を見据え、その未来の実現を我々がいかにして先延ばしするか観想することを期待する。これが「覚醒した破局論」だ。筆者はこれを狡知であり、希望ではないとしている。はっきりとした絶望を見せることで、私たちが未来に対して少しでも責任ある行動をとるように期待するという考えという意味での「狡知」だろうか。こういう理解・まとめ方でよいのかちょっと自信がない。

今の情勢を振り返れば、新型コロナに対する分かりやすい「短見」の事例はそれこそどの階層にも数限りなく見いだせる。個人的な例でいえば、私の父はまさに「短見」であった。ちょうど3月下旬、私が入院し行動自粛の呼びかけも高まっていた時期に海外へ出張したのだ。行った国は渡航制限の範囲外にあるような(渡航先としては)マイナーな国で、出張理由も後で聞いたらなかなか大きな案件だったようだから、それはまだ言い訳が立つ。ただ帰国後自宅で2週間待機したため、危うく私の退院と自宅待機の期間が重なるところだった。重複する時期は馴染みのホテルに泊まる予定だったらしいが、帰国者であることは言わずに予約していたらしい。その話を聞いて、電話で思わず「ようアイヒマン」と言ったのを覚えている。向こうは笑っていたが。
父はじっとできないタイプで、ステイホームと散々呼びかけられていたGW中も必ずゴルフの打ちっぱなしへ行っていた。そしてニュースでパチンコ屋といっしょにゴルフ練習場の混雑が映されると不満げだった。これもまた「短見」だろう。別に父を責めるつもりはない(最初に出張へ行った話を電話で聞いた時はさすがに膝から力が抜ける思いがしたが)。こういう短見はそこら中にあふれているし、退院したら近所の八重桜ならまだ咲いてるかもしれないから見に行けるかなとか呑気に思っていた私も、自分の病状と現実の状況に照らせばやっぱり呆れるほど「短見」だ。
ただ、そうした分かりやすい「短見」より遥かに厄介なのは、私たちがただ普通に働き、買い物し、生活するだけで数十人か数百人かに気付かぬうちウイルスをばら撒いて周囲に感染させてしまうリスクを負っているという事実だろう。我々がただ生きているだけでアイヒマンになりうる、もっと言ってしまえば私たちはみなアイヒマンである――こうした事実を突きつけられるのだ。もっとも、それは空調のきいた明るい病室で療養生活を送るだけでキリバスの消滅に貢献しているのと同じことなわけで、そうした見ないようにしていた現実がコロナによって可視化されただけとも言える。
こうした「自分たちはみなアイヒマンである」事実を可視化させやすくすることが、新型コロナの脅威ではないかと思う。可視化に自覚的であればイーザリーのようになるか、あるいは反動的に他罰的な自粛警察になってしまう。逆に可視化に無自覚であれば「コロナなんてただの風邪だろ」と言い、初期から発生が予想・指摘されていた第二波第三波に目を瞑ってかつての産業社会への復帰に邁進しようとする。そしていずれ訪れるであろう第二波、第三波に対して「想定外」であるかのように対処する。かくして分断が進み、社会に対して的確にダメージを与えていく。
今までパンデミックというと、エボラのような致死率が恐ろしく高い感染症を私はずっとイメージしていた。新型コロナはそうではない。そうでなくとも社会を破壊せしめ、破局に至らしめる方法はあるのだと今回気付けたのはこの本から得た新鮮な発見だった。そして自分の想像力の無さに驚いた。とはいっても、こうした特性を持つウイルスによる社会の混乱をテーマにしたSFを浅学にして知らない。SFが取り扱うウイルスはやはり致死率の高いものだ。つまり多くの人にとっても、ウイルスの脅威がこういう形式を取って現れることは「想定外」だったのではないか。そういう意味でもまた「短見」は溢れている。

本書の議論は西洋思想史の伝統に則ったものである。『ツナミの小形而上学』では、本書で度々引用されるドイツの哲学者ギュンター・アンダースの逸話として、彼が原爆の生存者にインタビューした際、生存者たちが原爆を自然災害のように捉えていたという記述が紹介されている。実際本書における「悪」の概念は西欧の思想、キリスト教的世界観に基づくものであり、巻末の訳者の解説にもある通り、日本人の感覚では「自然災害」をこのような「悪」としては捉えないだろう。また「破局」も黙示録的な考え方に基づくものであり、これも西欧独特の観念と言えるかもしれない。
その前提で、西欧哲学を態の変遷から再考した『中動態の世界』の議論と照らし合わせて読み進めていくのは面白かった。未来や責任などは両書に共通して現れる重要なワードである(そもそもアーレントがそうだ)。そしてその意味するところは異なっている。『ツナミの小形而上学』では最終的には我々が未来への責任を負わねばならないとしているし、災禍と人類は[害をもたらす/害を被る]という[能動/受動]の関係にある。未来と責任をもたらす「意志」を否定し、[する/される]とは別の思考を検討した『中動態の世界』の議論を持ち出せば、また別の読み方が可能となるだろう。

※ただし、ここまでの話から「日本人の発想が中動態的である」と考えてはいけない。『中動態の世界』においても、こうした発想は慎重に扱われていたし、そもそも日本語は語族が違うのだから能動態/受動態/中動態の議論を単純に「日本人論」に当てはめるべきではないだろう。

もっとも、withコロナとやらを「新型コロナウイルスが蔓延しているというプロセスの中にいる」という中動態的表現に置き換えたところで、せいぜいそれはある種の個々人が考え方・生き方を改めるきっかけになる程度だろう。これでは流行り言葉を難しく言い替えただけで、withコロナという言葉にある名状しがたい薄っぺらさがむしろ隠匿されてしまう。
『中動態~』の著者國分功一郎は前著『暇と退屈の倫理学』の一番最後で、自分自身が退屈とどう向き合うことを考え続け、退屈と向き合う生を生きていけるようになった先に、他者に関する事柄が浮かぶだろうと述べている。換言すれば皆がどうすれば退屈と向き合えるかという問題は、自分の退屈の問題を解決した先にあるということだ。そして、この自分の問題と他者・集団の問題との違いは中動態の議論にも敷衍しうるし、新型コロナ後の世界においても同様だろう。
『ツナミの小形而上学』では、「破局を前に観想する」という「覚醒した破局論」がもたらしうる期待について以下のように述べ、本著を閉じている。

――だが、個々の主体にさえほとんど不可能であるようなそんな務めが、数十億人からなる集団の場合にうまくいく可能性など、果たしてほんの僅かでもあるのだろうか。そしてそのようなことがありうるとしたら、それは奇跡が起きたときだけだろう。しかもそれは、とりわけ私たちが奇跡を期待していないという条件付きだろう。

個人から集団へ議論を拡張することは、かくも困難なことなのだ。withコロナなる標語にその困難性を受け入れる覚悟があるとはとても思えない。

本著では「犠牲」の概念についても言及がされている。本書では犠牲を3つに分ける。自然災害の犠牲者、虐殺の犠牲者、そして供犠の犠牲者だ。この3つには自然の秩序、暴力の秩序、聖なるものの秩序が対応する。更に私見で言えば先述した「自然的悪」「精神的悪」「システム的悪」とそれぞれが対応するとみてよいだろう。
この3つはしばしば混同される。自然災害の犠牲に対する哀悼が時に政治的な、消費社会的な善意へと塗りつぶされ、暴力による犠牲が共通善達成のための聖なる犠牲へと置き換えられる。こうした混同の事例として本書では、スマトラ沖大地震後に欧州から多くの義延金が贈られた際に贈る側がそれを幸せな美談や政争の具として語ったこと、自動車事故の犠牲者と自動車による経済発展のどちらを選ぶかという寓話、全体主義打倒の理念のための犠牲と核による犠牲を混同しているとヤスパースを激しく批判するギュンター・アンダースなどが紹介されている。
筆者がこうした混同へ抱く嫌悪感は、私が新型コロナの集団免疫論を生理的に嫌う理由とほぼ一致していると思う。加えて言えば、こうした混同をきたす時、我々は自分自身が犠牲になることを想定しなくなる。犠牲を客観的に、外にあるものとして語ってしまう。その卑劣さも好きになれない理由だ。

本書の議論からは外れてしまうが、上述した自身から集団へ議論を拡張する際の諸問題について、この犠牲の問題は欠かせない論点だろうと思う。もし自然状態の人々が等しく集団に犠牲を貢献できるのであれば、それはそれでよい。だが実際はそうならない。問題解決のための活動を集団化する際の犠牲を誰が負うか、現実に犠牲を負った者をどう扱うのか、どうしてもそういう議論と絡めて考えてしまう。
さらにこの話を『中動態の世界 4』で取り上げた話と絡めるならば、折り紙の世界にも破局の未来はありうるのではないか。例えば多くのコンベンション参加者は10年先もコンベンションという場を"誰か"が維持してくれるだろうと考えなしに思っているし、もしなくなったとしても"誰か"が似たような場を代わりに用意してくれると考えなしに思っている。そして"誰か"の理性的努力によって、折り紙の世界は今と同じように持続的に発展し続けていくだろうと考えなしに信じている。ここにもまた「短見」があふれている。
しかし、その"誰か"がいつまでも生きているわけでもないし、絶えず存在し続けるかも分からないのだ。そういう破局の未来を直接周囲に説くことは長らく憚られるように思えて、せいぜいほのめかす程度にしかしてこなかった。だが本著を読めば、そういう破局の未来をはっきり示すというやり方も、なくはないのかもしれない。
私が嫌悪してならないモデルはこうした破局が訪れたとしても何も思うことなく、別のどこかで折り紙なり別のクリエイティブな活動を続けていくのだろう。いや、そういう"誰か"こそが自分たちの理想とする折り紙の発展を阻害していたと考え、破局を歓迎さえするかもしれない。その主張はもはや短見とすら言えるものなのか、よく分からないが。
彼らに破局の責任を問うことも本書の議論を経ればまたナンセンスだろうし、彼らの変容を期待するのもまた奇跡を乞うようなものだろう。
    

昨日、膠原病科と精神科へ行ってきた。
雨の中外出したのは久しぶりだった。前回よりはスケジュールにも余裕があったはずが、今日の方が疲れていた。
ステロイドは25mg/dayまで減った。副作用としても順調らしい。喉の痛みもニキビもあるし、針反応なのか昨日採血した場所は腫れているし、退院後に47.5kgだった体重は50.5kgまで増え、そろそろムーンフェイスになりそうかなという感じになっては来ている。
ステロイドさえ減らせばという感じなのだろうか。
精神安定剤も悩みもので、1錠だとイライラするが、2錠だと午前中ボヤっとして強烈に眠いという状態が続きどうしたもんかという感じだ。服用時間をいろいろ変えて試してみたが効果がない。昨日は1.5錠を提案されたので今日早速やってみたものの、やはり眠い。というか寝てた。寝てるとはいってもトータルで9~10時間弱だから睡眠量としては悪くないのかもしれない。ただ午前中ほぼ何もできないのはちょっと辛い。

整腸剤が減ったので薬の見掛けの量はだいぶ減った。ヒュミラが在庫切れらしく後日郵送で送ってくるという。大学病院そばの結構大きな薬局なのにそういうことがあるのかと思った。チルド便で届くのだろうか。
もし地震等の災害があって停電した場合、ヒュミラをどう抱えて避難すればいいのかを薬剤師に質問した。基本保冷材入りの専用ケースでの運搬で、もし常温保管せざるを得ない場合は25~9度で暗い場所に保管すれば48時間はもつ。それ以上はエビデンスがないので分からないというのが製薬会社の見解らしい。真夏でなければ何とかなるか。
あとは緊急時のステロイドとヒュミラの確保方法だな。ヘルプマークもそろそろ身に着けないとなるまい。

眠気解消もかねて少し運動強度を上げてみてもいいかもしれない。昨日10万が振り込まれたという通知が来たので、少し離れた土日もやってる郵便局へ会費振り込みにでも行こうか。

特に野球が開幕した喜びというのは感じなかった。ヤクルトと中日は今年の一番弱いチームを決める戦いという感じのグダグダっぷりで笑いながら観ていた。あと東京ドームはやかましい。ヒットやチャンスの度にスピーカーで観客の声流すの、総理のおうち動画提案した官僚並みにセンスないと思う。
    

続 口腔外科

かかりつけの歯医者の口腔外科へ行ってきた。案外予約が早く取れた。
とはいっても抜歯した病院で書いてもらった報告書を渡し、口の中を見てもらっただけだ。薬をドバドバ入れてるだけあって口腔内の状態はかつてないくらい良好だから、特に治療することもない。
医師からは唾液が少ないことに改めて懸念を示された。もっとも唾液がじゃぶじゃぶ出てくる方法などない。うがいと飲水を増やすしかないようだ。どちらも退院後は意識して行っているものの、十分なのかは分からない。それとイソジンが今はなかなか売っていない。
歯石の除去を2週間後に改めてやることになった。担当医師の予約が今日はいっぱいだったらしい。口腔外科と歯科で担当が違うのだ。ちとややこしい。

どうも先週末にヒュミラ打ってから調子が悪い。だるくて週末はほぼ何もできなかった。痰が絡む咳まで出始めて、いよいよ上気道炎の副作用かとウンザリしている。
ヒュミラ2回目の時も似ただるさがあった。どういう時にこういう症状が出るのか、まだ分からない。気候が関係してそうな気もする。
今月は今週金曜と来週火曜に2回大学病院へ通院があり、その翌週火曜にも歯科の予約が入った。体調は整えておきたい。
この通院ラッシュが過ぎてお金がどうにかなればJOASの会費を払いたいのだが、どうなるのか。10万来たら振り込もうと思っていたら、来るのを待つ頃には6月が終わってしまいそうだ。購読継続願いのハガキが先日届いていて、ハガキ代と郵送代無駄な経費をかけさせたなと申し訳ない気持ちになった。

世の中に癇に障るワードはいろいろあるが、「免疫力を上げる」はその最たるものだろう。またこの言葉を方々で目にするようになり、その都度イライラしている。いい加減に掃滅してくれないものか。
    

アダリムマブ5

ということで5回目だ。前回二か月経ったと書いたが、今回で二か月であった。
どうしても右のお腹はうまく打てない感じがある。左は脂肪に打てている感じがあるのに右はうまく摘まめない。何でなのかよく分からない。
喉がイガイガする感じが続いている。そろそろクーラーを使わざるを得ない気候になってきたが、喉への負担を考えるとどう使っていいか悩む。夜も雨が降りこまないなら窓を開けて寝たい日があったものの、喉風邪引きたくないのでなかなかできない。

以前二度ほど父の部下で奥さんが熱を出したのに伝えず出社した奴のことを書いた。一月経っても依然として熱が下がらず、コロナはじめ感染症でもなく、結局私と同じ大学病院を紹介されたそうだ。それでもたらい回し食らった病院では膠原病を否定されたそうで、又聞きしかできていないこともあり、状況はよく分からない。膠原病を否定されたのか、自己免疫疾患ではないという診断なのか。
いずれにしてもこの時期に不明熱で一月病院をたらい回しというのは苦労が容易にしのばれるので、何とも言えない。父経由で色々助言は伝えておいたが、慰みにもならないだろう。特に最初の診断にたどりつくまでは相性のいい医者に当たるかのくじ引きみたいなものだ。運が悪いと何年も訳も分からないまま、とりあえずステロイドか抑制剤か抗炎症剤あたり入れとくみたいな治療だけが進むということになりかねない。



これが好きで何度も見ている。この人の動画は昔から見ているが、それでも幻獣防衛戦離脱周りは理解できてない。その分からなさも含めて、小学生のころの夢を叶える方法が最新の研究成果として大学の講義で紹介されたような感じが、すごいわくわくする。
このわくわく感は、折り紙の話を大真面目にしている時のわくわく感とよく似ていると思う。
    

口腔外科

3/18に行くはずだった口腔外科へ行ってきた。親不知を抜いてもらった隣の市の病院だ。
入院前日以来、約3か月ぶりの電車に乗っての移動だった。酔うかなと不安だったが、そういうことはなかった。PASMOの使い方を忘れていた。
歯の方は問題なく、今後は近所の口腔外科で経過観察をしていくことになった。そちらの歯科にも4,5か月ほど行っておらず、先日定期健診のお知らせが届いていた。今月中に行けたらと思う。
いつも1時間以上は平気で待つにもかかわらず、今日は大変スムーズで、やはり来院者は減っているのだろうかと思った。薬が大きく変わっていたので説明が面倒になるかもしれないという懸念も当たらず、さして時間を取ることなく診察も済んだ。ボンビバを使い出した点がそこまで大した話題にはならなかったのは意外だった。むしろ口内炎の跡が完全に消えて口腔内が奇麗すぎることに驚かれた。奇麗すぎるのもまた異常であるというのはおもしろいと思う。

ついでに数か月ぶりに外食をした。病院の近くに何度か通った良い店があるのだ。食事の買い出しもできたし、ずっと気になっていた無印の氷下魚と鰊の缶詰も買えた。外出の楽しみは味わえたが、やはり疲れた。というか暑い!
    
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Author:nh
この白い紙というのはある意味の無限なんだから、何が出現しようと構わないのですよ。――埴谷雄高

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